***悪玉・善玉***
人の心に存在する、悪玉、善玉。
これが、玉ころがしのように、ころころ転がる。
他人は、その転がり方を面白くも、可笑しくも捉える。
本人は、その玉転がしに自身がなく、ただひたすらに玉の転がり方を運命だと決め付ける。
しかし、自分で転がした玉は、自分で玉の転がるのを止めるか、別の玉を転がすしか、おかれた運命を変えることは出来ない。
ここで、悪玉、善玉の転がり方を比較してみると。
悪玉の場合は、比較的スムースに転がるが、善玉は腰が重くて、なかなか転がらない。
同じ玉でも、玉の重みが微妙に違いがあり、その転がる速度を違えてしまう。
たとえば同じ人間が、心の迷いから、悪玉、善玉の両方を並べ、同時に転がそうとして、玉を押したとする。
こんな時、善玉は動かない。
悪玉は、少し動く。
玉の動きは、心の動き。
動く玉には魅力を感じる。
動くほうを押そう。
従って、動きやすい悪玉に手を差し伸べる。
悪玉は、どんどん加速度を増し、転がって行く。
これは面白い。玉の変化が心を動かす。
そうなると、善玉の存在を忘れてしまう。
それゃそうだ。善玉は、ちっとも動かない。
動かない玉は、存在感すらない。
かと言って、動かない善玉ばかり転がしていたんでは、肩がこる。
この肩こりが、心の中を蝕んでいく。
心の中の肩こりは、意外な方向に歪んでしまう。
心に歪みが出来る。
表に出せない心の歪みは、何時かは音を立てて崩れ出す。
悪玉の存在しない心の崩れは、何処にも投げかけることも出来ない。
大変な重みとなってしまう。
考えてみれば、人には悪玉だけの人、善玉だけの人なんて居るわけない。
人は生まれた時には、悪玉も善玉も持ち合わせていない。
要するに、玉無し人間が生まれる。
そして、生まれてから、育つ環境の中で自然に身に付くものが善玉、悪玉である。
生まれてから、何の考えも無く育ったなに、悪玉も善玉も区別がつかなくなる。
ただ、自分の意志だけは、育つ。
自分の意志にそぐう時、善玉も育つ。
自分の意志にそぐわない時に、悪玉が育つ。
ここで、生きる道に、自分の意志が通らないことが、おぼろげに分かってくる。
意志にそぐわない時、悪玉が生まれる。
この悪玉の赴くままに、自分の意志通りに事が運べは、満足する。
これは、意志にそぐわない事への抵抗でもあり、その抵抗は人を脅かす。
これが権力であり、人間の生きる証となる。
では、人に服従する時が善玉であるのか?
服従することは、決して善玉ではない。
善玉とは、人を動かすもの。
玉を動かして、人が動かなければ、何もしないと同じこと。
悪玉も人を動かす。
善玉、悪玉とも、常に人を動かすものである。
善玉と悪玉の違いは、人を動かす速さの違いである。
悪玉は、動きやすくて、すばしっこい。
善玉は、動きにくくて、のろまである。
悪玉、善玉が最初から区別が付く場合もあるが、転がしてみなければ区別がつかない場合もある。
転がした後から、それが結果的に悪玉だったなんてのがよくある。
これが、転がした間に、悪玉であることが薄々分かったとしても、転がすことを途中で止められないことになる。
悪玉の真ん中に、自分の心が存在してしまうのである。
自分では、悪玉から離れたいと思う心との戦いが始まる。
なんで、自分は、こんな悪玉の中に居なければならないのか?
自分で自分を、コントロール出来なくなる。