***ベーシック***
インターネットの普及で急速にパソコンを必需品とする人が増えてまいりました。
現在は、幼児から高齢者まで、様々な形で使われています。
情報化社会での必須用具とも捉えられ、事あるごとにパソコンが話題になり親近感を繋ぐ役割にもなっています。
家に居ながらにして、数多くの情報が得られ、しかも、ネットを通じた遊びも出来るなんて便利な世の中になったもんです。
パソコンの過去を振り返ると、インターネットの存在すらなく、ただパソコンに触れゲームを楽しむとか、プログラムを組むくらいにしか使い道がありませんでした。
そして、今の時代になる前には、パソコンに触れる人は少なく、パソコンの話題など,世間では通用しなかったのです。
人前で、パソコンの話しをしようものなら、外国で日本語を得意げに話してるようなもんです。
つまり、世間話しには、パソコンの話しは仲間はずれになる要素が含まれていたのです。
ところが現在は、パソコンの話しが出来なければ、逆に仲間はずれになってしまいます。
主役になるものは常に変化し、年月をかけて少しずつ成長し、その時々の話題を変えてしまうものですね。
そんな流れの中で、パソコン教室も、ちらほら見え始めました。
その当時の、パソコン教室はベーシック言語、簡易言語を教えることだけだったんです。
それにより、プログラムの作り方の指導です。
もちろん、ネットは論外、ワードもエクセルもありません。
もろに、自分流のプログラムを作るか、既製のプログラムを、一字一字写すしかなかったので゜す。
そして、易しいと言われたベーシック言語を、マスターすることは極めて困難なことでした。
いつしか、パソコン教室は成り立たなくなり、消滅してしまいました。
それもそのはず、この言語をマスター出来るのは、1000人のうち6人。
俗に、千六(せんむつ)。って言われていたんです。
この言語への執着が強まり、年月をかけてマスターしたんですが、ウインドウズ95の出現で、これも通用しなくなりました。
時代の移り変わりで、やっとマスターした言語が死語になってしまいました。
ベーシック言語ばかりでなく、専門家が使う事務計算に欠かすことの出来ないコボル言語、技術計算に必須のフォトラン言語も同様な運命を辿りました。
死語の復活をかけて、ネットで使えるHTML、JavaScriptでプログラミングをしてみたら面白いと思うこともあります。
今を遡ること、30年前のことです。
趣味に詰まっていました。
趣味は、その魅力に取り付かれた時から始まります.
それまで、頭は車に占領され、あっちを弄りこっちを弄り、地図を眺めて道筋の研究。
もし、車が壊れたら、その応急処理の方法は?
道に迷っても、無事家路に着くことが出来るかどうか?
首都高速を通り抜けることが、小さな目標でした。
そんなことが、一段落して何気なく本屋さんに立ち寄り見たものが聞いたこともないパソコンの本でした。
「これ。なーに?」って本屋さんに聞くわけにもいかなく、素直に本を買い求めました。
これが、苦しみの始まりでした。
本を読んでも、なんのことやら、さっぱり分からず。
パソコンって、なんだ?
分かりっこありません。
何百人も居る勤め先にも、影も語りも無かった時のことです。
取り合えず、手掛かりを求めて電器屋さん巡り。
何軒か廻るうちの一件に、片隅に寄せられてパソコンらしきものが、1台おいてありました。
値段を見て、びっくり。20万台で。
でも、買わないことには先が見えない。
これが未知への趣味に引きずり込まれる第一歩でした。
ただの箱。
現在のようにインターネットなんて無い時代のことです。
パソコンは、文字通り、ただの箱でした。
プログラムが無ければ、ぴくりともしません。
ただの箱を買ってしまって、これからどうなるのか?
幸いなことに、電源の接続経路や、初歩的のプログラムの組み方も付属していましたから、どうにかこうにか電源を入れて、初歩の初歩のプログラムを書いてみました。
そうしたら、字が画面に出たんです。
そして、特定のパソコンしか動かないソフトを求めて、県内、東京に足を伸ばしました。
ちっぽけな街では、パソコンすら売ってないんですから、ソフトのソの字もありませんでした。
ゲームソフトは子供に。それに趣味を活かせそうなソフトを手当たり次第に。
ある日のこと、小学生1年の子供の誕生日。
その頃、子供同士で、誕生会が大流行。
持ち回りで、誕生日には、呼んだり呼ばれたり。
そして、そこでパソコンの、お披露目が始まりました。
子供達は、初めて見るパソコンに興味深々。
仲良く遊んでいた子供達の笑顔が、記憶の隅に残っています。
そんな時に、おやつに出したケーキを食べずにいた子。
太った男の子。
「何故、食べないの?」
って聞くと、糖尿病で食事制限だから。と。
大変だあ。小学1年生で糖尿病なんて。
本当は食べたいのに食べられない。
これって。罪だなあ。
パソコンの前の趣味。
車の趣味。
車弄り。
何故、車に嵌ったかだけど。
子供が、どういうわけか車好き。
大方の車の名前を覚えてしまった。
そうなると、実物を見たくなる。
時は、世を上げて外車ブーム。
ご多分に漏れず、モーターショーは花盛り。
倅が幼稚園の頃のこと、ランボルギーニが見たいと。
おもちゃで見てるから、どんな車かは検討が付くのだが。
そうそう。ドアが上にあがる車である。
今は、幕張メッセだが、当時は東京晴海。
車も無い時。晴海の位置すら知らない。
地図を見ると錦糸町から近そう。
そこからタクシーに乗ればいい。
ここで、どうして東京駅まで出ないかであるが、晴海へ行く道を身をもって覚えたかった。
錦糸町に着くと、すぐタクシーに乗った。
「晴海まで、お願いします。」
「はい。分かりました。」
と。までは良かったが、暫く乗ると。
「お客さん。晴海は、どっちですか?」
どっちだって言われても、どっちなのか。
地図は、持っていても、とんと検討が付かない。
「運転手さんの判断で。」
と。言ったんだけど。
その運転手さんは。
「東京に出稼ぎに来て2ー3日。まだ、右も左も分かりません。」
これじゃあ無理。とても晴海には着けない。
「別な車に替えてくれませんか?」
これで、別な車を世話してもらい晴海まで行くことが出来た。
しかし、東京は広い。何処をどう通ったのか、ほとんど分からず。
ただ、道は繋がっていることだけは分かった。
知っている道。知らない道。
太い道から、細い道。
細い道は、奥の細道。
都会の道と、田舎の道。
都会の道は、細くても、車が落ちる心配は無い。
でも、通り抜ける間に、どこかにぶつかるかも。
田舎の道は、落ちたら田んぼに真っ逆さま。
もし、それが水深30センチもあったら、車が平らでもドアは開かない。
実際に、田んぼに落ちたことがあった。
仲間が地元の道の通であった。
運転に絶大なる信頼のある人。
夜中で通る道は、曲がりくねった細い、田んぼ道。
この道をすいすいと。
知っている道でも、気を許すと大変。
路肩の崩れで、あえなく車は、田んぼに向けて進んでしまった。
真っ暗闇で、横たわり止った車。
ドアは、上にあげなければ開かない。
幸いにも水深は少なかった。
水は、車に入らない。
ドアは、鉄の塊のようにもの。
車の中から、ドアを開けられるのは重量挙げの選手くらいのもの。
ドアの窓をあけ、這い出す運命。
外に出られれば、水を得た魚のようなもの。
車から出られるか出られないかが運命の分かれ道である。
道にも、いろいろ有るもんだ。
道は網目になっている。
網目の中に落ちた魚は、一網打尽。
網から、外に出ることは出来ない。
網にも、いろいろあるけれど。
「差し伸べた 網の先には 光る羽 トンボは哀願 果敢ない命に」
一面の田んぼが、今は住宅の林立。
都市化の波は、至るところで進む。
良くても悪くても、この波は止められない。
波が波を呼ぶ。
並々ならぬ浮世の狭間で、何かが起きる。
それが浮世というものである。
道路の網は、道路網。
網と言うのは、頭の中にもある。
脳細胞は、網目になっている。
魚は、網が切れると逃げてしまう。
頭の中の網が切れると、記憶が逃げる。
記憶は、頭の中で泳いでいる。
記憶を逃がさないために、網目を細かくしよう。
年とともに、網目が弱くなる。
そして、網が切れる。
三大成人病は、「がん」「脳卒中」「心筋梗塞」
網が切れと、「脳卒中」になりやすい。
高齢者になればなるほど、切れやすい。
頭の体操は、若さを蘇えらせる。
頭の体操によって、新しい網を作ろう。
その網は、記憶を支えてくれる。
脳細胞。
人の脳細胞は、1千億個あるという。
そして、1日、10万個が死滅するという。
預金されている脳細胞は、大変な数。
たかが、10万個くらいが消えても、たいしたことはない。
脳全体が死滅するには、時間的ゆとりはたっぷりあります。
だから、これから先は、預金する必要はありません。
おおいに無駄遣いしましょう。
ただ、これが、お金なら利子を生みます。
利子は、利子を生み、一生何不自由なく暮らすことができます。
ところが、お金と脳細胞の違いは?
脳細胞には、利子が付かない。
これですね。
せっかく沢山の脳細胞があるんですから、無駄遣いしながら、利子を付けよう。
そして、利子から利子を生み出せば、脳細胞は若さを保ちます。
年寄りの脳細胞は死滅しても、若さのある脳細胞が全体を支配します。
60の手習い。70の手習い。80の手習い。
ある人は、95歳から中国語の勉強初めて100才を迎えたという。
私の場合は、35歳からプログラミングを始めました。
プログラミングは、考える力を養います。
高齢者のプログラミングは、頭の体操。
右へ行こうか、左へ行こうか。
そして、そこから枝分かれ。
枝には、小枝が付き、小枝には、さらに小さな枝が付く。
そして、その先端の枝は芽吹く。
春を待たずに芽吹く葉は。
やがては、野山を新緑で彩ることでしょう。
今、60才の定年が65才に代わうとしています。
その仕組みは、60才で役をとかれて平社員。
定年が延びたとはいえ、苦痛の5年間。
それもこれも年金是正によるもの。
大切な脳は、自分で守るしかありません。
脳のしわと、皮膚のしわ。
脳のしわは、ある程度は確保した。
これで一安心。
安心した眼は、足元に向いた。
ちょっと虫眼鏡を取り出し、皮膚を拡大してみる。
皮膚は、しわだらけ。
安心の世界から、奈落の果てに突き落とされる。
大変だあ。
これって、老化現象?
不死身の我が身体が、しわに支配されるとは。
誰でも訪れる老化現象。
何処かに不老長寿の薬はないものか。
朝鮮人参。高い。食べられない。
さるの腰掛。固い。歯が持たない。
薬草茶。にがい。まずい。
何か、良い方法はないか。
そうだ。しわ伸ばし。
手で、すりすりしわ伸ばし。
これの高級品は、韓国の垢すりマッサージ。
「年寄りの敵は本能寺にあり。それを見破れば死は遠のく。」
これを訳すと、「本能的に、しわ伸ばしすると死は遠くなる。」
昔から、身体を冷水摩擦する人は、風邪も引かないという。
これは身体を摩擦することで、血液の循環運動が活発になり、体温も上昇する。
つまり、長生きの秘訣は身体の隅々まで冷水摩擦をすることだ。
しかし、口で言うのは簡単だが、実行は難しい。
温水摩擦でも、定期的に摩擦の出来る人は、優等生だ。
自分では、やらないで、人にすすめることで。
脳細胞は、あたかも冷水摩擦をしてるような気分になる。
これは、仙人が霞みを食べて生きる極意でもある。
枯れ木に水。
草木は、水分が不足すると枯れてしまう。
人とて同じこと。
水分が不足すると脱水表情を起す。
人が生きるには、欠かせない水である。
もし、不老長寿の水があったら、その水を飲もう。
でも、簡単に、そんな水には出会わない。
一生のうちに、その水に出会うことが出来るのだろうか?
もし、そんな水に出会うことが出来たら、その人は一生は終わらないので永遠に生き続けることになる。
ここで、不老長寿の水に替わる水がある。
それが水であり、海水ではない。真水である。
塩分の多い水ばかり飲んでいたら、たちまち高血圧になる。
水は、貴重なもの。
ゆめゆめ、水を粗末にすることなかれ。
水は、飲むばかりでなく、皮膚に塗ることを提案する。
これすなわち、皮膚に水を塗り、皮膚を刺激させる。
枯れ欠けた草木に、水を蒔くごとく、皮膚に水を塗る。
これが、しわ伸ばしの極意に繋がる。
なるたけ、日中に塗ろう。
草木の栄養は、日中の散水である。
年寄りの冷や水は、昔から伝えられている。
身体に水をかけている姿は、ちょっとみっともない。
手の平に零した水を手足に塗るのは、誰の眼にも微笑ましくみえる。
さぞかし、高価なものを塗り手繰ってると思われ、美容の心得ありと見られる。
しかし、それが真水であるとは、誰も気がつかない。