***過去・現在・未来***
昨日が有ったから、今日と言う日が有る。
今日が有るから、明日と言う日が有る。 これが人生の方程式。
いわば、独身時代は、昨日。 結婚して、子供が成長するまでが、現在。
その子供が、大人になり、その子供が生まれてからが、未来。
と、言うことになると、独身のままで、一生を終わったら、明日を迎えられない。
結婚しても、子供が授からなかったら、未来がない。
そんな方程式なんて、馬鹿馬鹿しい。 そうなるのである。
しかし、そうならないと、子孫を残すことは出来ない。
おおかたの人が、そのような形で、死んでいく。
死んで名を残す。
やがて、先祖となり、仏の世界で地位を持つ。
人の一生は、2−3日で、すべてが片付くものではないが。
端的に言えば、そんなもんである。 わたしと仕事の苦楽を伴にしたものが、7人も地下に潜ってしまった。
何故か、生きようとしても生きられなかった。
そして、その奥さん方は、すべてが健在。
これは、何を意味するのか? 男と女の生命力の違いでもあるのだろうか?
生きている楽しみ。命の尊さ。
生まれる前から結ばれていた。
そんな気のする紅の糸。
だから二人は死ぬまで一緒。
そうてす。二人は、片方が死ぬまでしか一緒には居られません。
同じ年代で、こうも多く地下深く沈んでしまったことは何の因果か分かりませんが。
これも男の性なのか、再び大気に触れることはありません。
しかし、不思議なもので私の頭の中には健やかな笑顔が蘇えります。
平均寿命が80才を越しているのに。
彼等は、何かを遣り残してしまったかもしれません。
生きている楽しみを忘れてしまったのかもしれません。
では、生きている楽しみとは何か?
高齢者の進む道に避けることの出来ない、一歩一歩忍び寄る高齢への不安。
ある日のこと、テレビの放映で、その様々な日常生活が紹介され、その対応を事細かに導いていた。
高度成長、団塊の世代の引き金が大きな団地を作り出し、同世代は互いに協力し、街の生活体系は不動のものにしていた。
時代の流れは、年の流れでもあり、気がつくと年寄りばかりの街になっていた。
子供達は、親を離れて羽ばたき独立への道を進み、残された開拓者は。
一人欠け、二人欠けで、相方の独居生活は、そこかしこに見られるようになった。
高齢者の人口は、全体の1/4。
この率は、進みこそすれ下がることはない。
日本は、世界一の長寿国。
食生活の改善、生活環境の充実、高度の医療体制により、その名をほしいままにしている。
死への恐怖より、孤独に生きる生き地獄に陥る人々が日増しに増えている。
これも長寿国の宿命である。
しかし、人の運命は皮肉なもので、病気、事故により早くして一生を終える人も多い。
病気には勝てないことは分かるが、どう考えても、この数は長寿国に当て嵌まらない。
男性と女性とは寿命が違うとは言いながら、あまりにも差別である。
この相方は、これから20年、30年ともなるであろう独居生活が余儀なくされている。
我が国は、優れた医療業務の確保と、食生活の改善により著しく長寿への道を歩み続け気がつけば世界の先端に位置する長寿王国になってしまった。
ゆとりのある生命体は、ここかしこに存在している。
人間としての生命維持は限りなく延びる反面、ひそかに訪れる病魔に苦しみもがき、或いは偶発的に起こる避けがたい出来事で一瞬にして命を失うこともある。
又、男と女の生き様の違いが運命の絆に、弄ばれることもある。
生きて行くことの難しさは、予測のつかないものでもある。
生きる喜び、苦しみ、辛さは、人それぞれに天が与えた性でもある。
進むしかない生命。生きるがゆえに前へしか進めない生命。
そう、過去へは遡れないのが生命体の果敢ない性である。
若さを失い、恍惚に甘んじるその姿は、見かたを変えれば滑稽にも映る。
一瞬先は闇の世界であり、その闇を模索しつつ、年月の経つのは早いもんで、どうでもいい年になってしまった。
願わくば、我が生命を暗黒の世界から解放し人生街道の露の光に照らされることを祈る。
ふと、我に帰った時、そこにあるものは現実の世界である。
見渡せば、我が多くの同輩は、それさえも叶わず、すでに地の果てに埋もれてしまった。