***お話が持つ意味***
近所に住む、ご婦人方は、夜の散歩に1時間かける。
この間、口の休まる暇もないと言う。
見たもの、聞いたものが話題となる。
これは、歩く井戸端会議でもある。
誰でも知っている通り、井戸を囲んで話を弾ませたことから井戸端会議と言われるようになった。
今の世は、一般的に、お喋り話を井戸端会議と呼んでいる。
井戸が無くても井戸端会議。
水は、生命の存続に必要不可欠なもの。
昔は、水道などが無かったから、一軒に必ず一つの井戸は掘っていた。
そして、愛着を込めた井戸は、井戸神様として立て祭られる。
たとえ古井戸であっても神様は存在する。
井戸の祟りは恐い。
もし、粗末にして無造作に埋めてしまおうものなら、それに関連した人には、それなりの報いが現れる。
そこで、何らかの形で、その井戸を清める。
つまり、お払いをすることで、その災難から逃れ安定した生活が送られることになる。
では、井戸端会議の中心となる井戸は存在するのか?
井戸の無いところでは、井戸無し神様が存在する。
その神様は、井戸端会議に参加している人を、微笑ましく観察している。
大方は、その会議に参加してない人を話題とする。
「誰それさんは、どうだった。こうだった。」
話には、尾ひれが付き物。
話は、段々に飛躍する。
誰かが、「誰々さんと誰々くんが歩いていた。」と言うと。
別の人が、「あの人達は妖しい。」
「何時も一緒に居る。」
「不倫だ。」
「もし、ばれたら、家庭崩壊。」
「どうしよう?」
「別れた後の生活は?」
これらは、みんな取り越し苦労である。
これは、現実に憶測が加算され話を飛躍させる。
憶測は、数学の世界では未知数。
この未知数を含めたものを井戸端方程式と言う。
現実の部分だけでは、話に限りがある。
つまり、「お話し」とは、結果論だけでは、「どうだった。こうだった。」で終り。
未知数の存在しない、お話となり長続きしない。
「お話し」のキーポイントは、この未知数である。
未知数とは、結果が解からない部分なので、その人その人で未知数を解析する。
そこに、未知数同士が絡み合う。
この未知数の絡み合いが、「お話し」の話題を方向付ける。
「お話し」の主体たる三要素は、「過去」「現在」「未来」である。
「お話し」とは、便利なもので、「お話し」のスタートラインが、その要素を表わす。
「昔々、あるところに。」で始まれば、昔々のお話し。
そこで、一般的には、「おじいさん、おばあさん」が登場するかに思ってしまう。
ところが、ここで、「昔々、あるところに一人の青年が、あてども無い旅を続けていました。」
そうすると「お話し」は、昔話しなのに、その青年が、颯爽と未知の世界へ踏み出すことになる。
ここでの昔話しは、時代感覚が掴めない。
昔から、10年ひと昔とも言われている。
「お話し」の青年が、現在は高齢者であっても、その「お話し」の中では、若い青年として、登場し活躍することになる。
そして、その「お話し」の主役を演ずる。
元々、「お話し」とは、自分への語りかけであり、反省論でもある。
従って、その主役が、その「お話し」の続きを、未知の中で作り出す。
これが、現実にあったことなのか作り話なのかは、当事者しか分からない。
仮に、それが作り話であっても、他人には判断できない。
作り話でも、現実の出来事から、少しだけ飛躍するような「お話し」は、よくあること。
あまりにも飛躍しすぎると、その「お話し」が浮いてしまう。
「お話し」として聞きたくなるのは、現実論である。
現実的な「お話し」に未知数が加わることで、その「お話し」は活き活きとしてくる。
もし、右へ行こうとしていた時、左に行っていたならは、こうなっていたかも知れない。
右へ行くのが現実。左へ行くのが未知数。
人は、未知なるものに興味を抱く。
未知なるものへの追求は、老化防止への特効薬ともなる。